ジャニオタ 異なる宗派の話 ~みんなちがって、みんないい~

 

私がジャニーズを好きになってから1年が経過した。推しグループ関係なしに友人と語ったりSNSで楽しくオタクをしたりしていたのだが、その中で私は1つのことに気が付いた。私たちに絶対的に共通している事実は担当を応援していること、たったその1つしかないのだ。彼らをどのように応援しているかは異なるのである。

 
それぞれの応援スタイル(以後、宗派と呼ぶ。応援スタイルって言葉が長い。)を完全にパターン化することはできない。なぜなら私たちはたくさんの"好き"を組み合わせているからだ。
 
例えば『担当のどこが好き?』という質問に「顔が好き」と答えた人が3人いても、1人は目が好き、また1人は唇が好き、もう1人はその人の顔であることが好き、など好きなポイントは人それぞれだ。また、顔が好きなだけではないかもしれない。歌が好き、スタイルが好き、ファッションが好き、考え方が好き、爪の形が好き。この好きを更に細分化することもできるのだ。私たちはこういった数えきれないパターンを組み合わせているのだから、答えが全く同じ人はほぼいないか、いたとしても少数だろう。
 
少数いたとして『担当ではないメンバーをどう思う?』と聞いたとする。これも答えは1つに決まらないだろう。好きだけど担当が1番、担当と他のメンバーは比べられないが好き、誰と言われたら〇〇君なだけで他のメンバーと大差ない、別に興味がない。更に本人も正確に把握することが難しい微妙な感情が入ってくることもあるだろう。それを具現化することは困難である。
 
たった2つの質問でも答えが完璧に合致する人は誰一人としていない、とここでは言い切ることにする。よって、宗派は人それぞれで多種多様、その全貌を理解することは簡単ではない。
 

では誰とも分かり合えないのか?というとそうではない。私たちは部分的な共感を見つけて語り合うことはできるのだ。

要は、自分にとって相手の宗派をどこまで許容できるかである。その範囲をどこに設定するかもまた個人の自由だ。

 

ここからが本題である。前提として宗派の正否は存在しない。しかし、受け入れるのにはちょっとしんどい宗派というものはあるだろう。私だって誰かにとってそんな存在かもしれない。

 
ここからは私の話になってしまうが、私にも1つだけそんな宗派がある。今までは「ああ、この人私とはちょっと違うんだな~」とぼんやり思っていただけだった。それをはっきりと感じたのは今年の3月後半、NEWS 2016 QUARTETTOの初日、グッズについて。NEWSのグッズは可愛いと評判で、私は今年のそれも楽しみにしていた。
 
現地の人が投稿してくれた写真でツアーTとパーカーの詳細を知ったときに、私は少し不安になったのだ。何に対してか?私以外のファンの反応に、である。私自身は今回のデザインも無条件に好きだが、これは賛否両論ありそうだなと思ってしまったのだ。
案の定、「去年より可愛くない」「おしゃれなNEWSはどこに行ったの」といったツイートを見かけた。責めているのではない、しかし辛い思いをした人も一定数いると思う。その証拠に「ダサいとか言わないでほしい」といった類の投稿も見られた。

「ダサい」も「可愛い」も「好き」も「嫌い」も、自分にとっての感覚でしかない、主観的なものだ。好みではないという理由で批判する人に少し傷ついた。

 NEWSから供給されるもの(歌・パフォーマンス・グッズ等)は何でも受け入れるのが私だ。単純に言うならば好みがないのである。NEWSが考えて作り出したものが好きでどうしても否定したくない、盲目なオタク。そういう宗派なのだ。
 
だから、なぜNEWSが私たちのために考えたものを否定できるのか理解できなくて苦しかった。好意を否定することができるのが不思議で仕方なくて、ちょっとだけ腹が立った。
 
今、QUARTETTO公演に対しての様々な賞賛・批判がある。思うところは人それぞれあるのだから当たり前だ。でもやっぱりそれらを見るのはしんどかった。NEWSが用意してくれたパフォーマンスを純粋に嬉しいと受け取れないことが悲しくて、私が幸せだと感じたあの空間は他の人にとってそうではなかったのか、本当は楽しくないツアーだったのかと悩んだ。私は意志が弱くて流されやすい人間だから、3日ぐらいはずっと考えて。
 
でもドームであのときあの瞬間"楽しい!"と思ったことは間違いない私の真実で、それを思い出してからは「宗派の違いなんだ」と思うことにした。つまり宗派の理解を放棄して、そういった人の存在を肯定したのだ。そうしたら少し楽になった。ぐちゃぐちゃとモヤモヤが充満してた頭に整理がついた。割り切ることはこの先もファンとして生きる上で大切だという結論に至ったためにこの記事を書いている。

発言したら誰かが傷つくかもしれない。傷つける側だけでなく、傷つく側も知っておくべき事実である。それを踏まえた上ならば宗派の違いで揉めることもなくなるのではないだろうか。
  
批判する人が悪いとか、擁護する人が良いとか、そんな話ではない。「他人の思うことが全てではないように、私が思うこともまた全てではない。」当たり前のようであるが、私たちはこれを再度認識する必要があるはずだ。
 
たしかな事など 何も無く
ただひたすらに 君が好き
 
きっと、みんな結局はここに辿り着く。
たとえ"好き"のかたちが違っていても、"好き"の事実は変わらないものなのである。